琵琶楽の流れ / 琵琶楽の歴史2 / 筑前琵琶(薦田治子)
 

③ 筑 前 琵 琶 (P.428・429)

●筑前琵琶歌の誕生と展開 

 江戸末期には、博多で興行的な琵琶の演奏が行なわれており、芸達者な盲僧たちが人気を集めていたという(『日本南国物語』)。筑前琵琶の創始者、橘旭翁(一丸智定、1848~1919)は福岡の盲僧頭の妙福の息子で、晴眼ながら盲僧となるが、明治4年(1871)に盲僧が廃止される。元来器用でさまざまな芸能に関心があった智定は、琵琶を手に盲僧の琵琶歌や八人芸などで寄席に出演し、巡業の芸能団に参加した。明治25年(1892)には鹿児島に半年間滞在して薩摩琵琶楽を習得し、楽器をはじめ奏法や節回しも薩摩琵琶歌から多くを採り入れて筑前琵琶歌を創始した。智定から琵琶を学んだ博多の芸者吉田竹子が東京に出て成功を収めると、自身も上京し、明治34年(1901)からは本格的に東京に居を移して普及に努めた。その前年には逵邑玉蘭(要吉)の手によって27曲分の歌詞が新作され、時代にふさわしい作品が整えられた。智定は、橘旭翁を名乗って旭会を設立し、家元制度取り入れて多くの弟子を育て、明治末までには薩摩琵琶と並んで全国的な筑前琵琶の流行を見るに至った。才能を見込んで養子にした橘旭宗(那珂郡三宅村出身・吉村六郎、1892~1967)と協力して、晩年には、五弦の筑前琵琶を創案した。(*著者註. 橘会現家元に確認したところ、橘旭宗は初世旭翁の実子とのことである)。旭翁の作品としては、四弦琵琶用に《義士の本懐》《湖水渡》などが、五弦琵琶用に《長良秋風》《筑後川》《壇ノ浦》などがある。段物は少ないが、《粟津が原》《宇治川》などがある。

 旭翁没後、実子一定が二世旭翁となり、二世もまた、《西郷隆盛》《大石主税》(いずれも五弦用) などたくさんの作品を残した。(中略)

 いっぽう、橘旭宗は大正9年(1920)に旭会と袂を分かって橘会を設立し、新たな節回しや奏法を研究して、楽譜を整理し、《茨木》《安宅》《隅田川》など、多くの作品を作った。(以下略)

                         

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