琵琶楽の流れ / 琵琶楽の歴史2 / 九州北部の盲僧琵琶( 薦田治子)
 
 

➁ 九州北部の盲僧琵琶 (P.426〜428)

 筑前を含む北九州一帯でも、かっては平家琵琶が琵琶法師の間で使われていたと考えられる。長崎県の古い盲僧寺院に平家琵琶の断片が残り、熊本県には平家琵琶によく似た古い盲僧琵琶が残っている。福岡県と山口県は、江戸時代初期に、在地の琵琶法師座と京都を中心に成長してきた当道座との抗争が、最も激しく繰り返された地域である。そのために延宝2年(1674)の当道座勝訴以後、九州北部での在地の琵琶法師座(盲僧)への締め付けは厳しく、芸能活動は禁止され、三味線は没収された。

 こうした状況の中で、盲僧たちは使用の許された流行遅れの平家琵琶を三味線風に改造したと考えられる。芸能活動なしに生活が成り立たないからである。北九州の盲僧琵琶の形態はさまざまだが、柱を高くする試みは広く共通している。そのなかで「笹琵琶」と呼ばれるものは、胴の幅がほぼ三味線と同じで、その撥は太棹三味線の撥によく似ている。瀬戸内海を通って次々と北九州にもたらされる上方の音楽文化に対応するために、琵琶の三味線化が進んだ例といえよう。北九州では柱の数を増やすことも試みられたようで、六柱の盲僧琵琶も見られる。天明期に京都の青蓮院を本所として盲僧座が組織され、社会的な身分は回復したが、表向きはあくまでも宗教者であった。

 明治維新により、盲僧は新たな困難に直面することになる。神仏分離政策と盲官廃止令である。これに従って明治5年に福岡県は、博多の盲僧座の頭の妙福に対して、盲僧の号の廃止と宗教活動の禁止を通達した。その際に琵琶を弾いて生活することは勝手であるとした(『日韓盲僧の社会史』)。江戸時代から当道座にも盲僧座にも属せず芸能を職とする盲人もいたが、この通達後、盲僧から芸能者へ転身するものが多く出た。その後数年で盲僧たちは天台宗に復帰し、明治38年から40年にかけて天台宗地神盲僧として再編成され、中国地方と九州北部地方の盲僧は玄清法流として福岡の成就院に、また九州南部の盲僧は常楽院法流として鹿児島の常楽院に所属することになり、今日の体制が出来上がった。現在、成就院では、初観音護摩供法要(1月17日)と施餓鬼講(8月6日)で、琵琶を弾奏しながら観音経や阿弥陀経が読まれる。檀家で行なわれる法要でも、荒神経の音読や訓読と和讃を琵琶にあわせて読誦する盲僧がいる。なお、江戸時代から、檀家を晴眼の実子が引き継ぐ風習があり、玄清法流に所属する現役の盲僧は、みな晴眼者である。

 この地域の盲僧が歌った芸能的な琵琶歌にも、段物と端歌があり、詞章の内容には、クズレと呼ばれる

合戦物や浄瑠璃に素材を採った語り物、祝歌、仏教歌、教訓歌、恋歌、もの尽くし、滑稽な内容を持つチャリなど、さまざまのものがあった。近世から近代にかけて、つねに同時代の流行音楽から大きな影響を受けていたと考えられる。明治期以降の盲僧組織では、芸能活動は奨励されなかったが、成就院部では、比較的最近まで盲僧の芸能活動が行われていた。その中で森田勝浄、山鹿良之らの演奏の記録映像作成や録音も行なわれた。

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