琵琶の歴史 /  琵琶楽の歴史2(新設)/ 薩摩琵琶( 薦田治子)
 

➀ 薩 摩 琵 琶 (P.415〜420)

◆ 薩 摩 琵 琶 の 流 れ

●盲僧琵琶から薩摩琵琶へ

 薩摩琵琶歌には、現在、大きく見て四つの流派がある。薩摩出身者によって明治時代に薩摩から東京にもたらされた「正派」と、東京で明治40年前後に永田錦心が確立した「錦心流」、大正末年に水藤錦穣が創始した女性向けの「錦琵琶」、第二次世界大戦後に鶴田錦史が錦琵琶をもとに創始した「鶴田琵琶」(鶴田流)である。その歴史的な流れをたどってみよう。

 薩摩地方の盲僧琵琶を晴眼者たちが自ら演奏して楽しむようになったのが薩摩琵琶の始まりである。その盲僧琵琶は延宝2年(1674)の三味線禁令がきっかけになって誕生した。盲僧たちが平家琵琶を三味線風に改造するときの、いちばんの工夫は柱(フレット)を高くすることであった。三味線は棹に柱がなく、どのような音高も自由に出せるが、平家琵琶は柱の位置で出せる音高の数が決まっている。そこで盲僧たちは、柱を高くして、柱間を押し込む力を調節することによって(押シ干奏法)、三味線同様、あらゆる音高を出すことを思いついたと考えられる。九州の他の地域では、柱の数を増やした例も見られるが、薩摩地方では、もっぱら押シ干奏法が発達したために、柱の数は平家琵琶より一つ減って四柱になった。(中略)

 島津日新斎忠良(1492~1568)が薩摩琵琶歌を創始したという説は、久保之英の『御家兵法純粋巻』に初出する。この説は明治時代の演奏者の間で好んで語られた。「郷土の偉人が創始した音楽」というイメージが、薩摩琵琶の音色同様、東京に出てきた薩摩人の心の支えになったと思われる。同時に、「戦国武将が創始した武士の音楽」という文句は、江戸時代の三味線音楽を「俗曲」として退け、中世の「武士道」に理想を求めた明治時代の人々の心をとらえた。薩摩琵琶歌の歌本の出版は明治20年代に本格的に始まるが、そのころは「伝日新斎」と注記されていた曲が、やがて「日新斎作」と明記されるようになっていったことも、こうした背景とともに理解されるべきであろう。

 楽器の成立は、琵琶歌の成立より時代が下がる。十九世紀の初めころ薩摩で活動した川上元正という人の琵琶は、現在の薩摩琵琶より小さく、覆手は低く、その下にある支柱は太く、隠月(音孔)は大きく四角かったと伝えられる(『薩摩琵琶淵源録』)。これらの特徴は、鹿児島の盲僧寺(日置市の中島常楽院)や宮崎南部の盲僧寺(日南市の長久寺、えびの市の三徳院)に今も残る薩摩盲僧琵琶の特徴と共通する。名前のわかる薩摩琵琶の楽器製作者としては新穂甚兵衛(1809~94)がもっとも古い。甚兵衛が天保7年(1836)に作った琵琶「秋月」は、明治16年(1883)の御前演奏で使われている。十九世紀初頭から天保7年までの間の約30年間に、現在のような薩摩琵琶の楽器の形ができあがっていたものと考えられる。

 幕末の薩摩では、徳田善次郎(善兵衛)、妙寿などが活躍した。士風、町風の別があったというが、伝承上は両者の系譜が入り混じっており、実態はよくわからない。また、妙寿をはじめとして、座頭(盲僧)も琵琶を弾き続けたが、明治時代になって薩摩盲僧が天台宗のもとに再編成される過程で、芸能活動を自粛したこともあり、現在では、薩摩地方の盲僧は芸能的な琵琶は弾かない(個人的に稽古して楽しむ人はある)。

 なお薩摩盲僧の現状について付言すれば、現在も吹上町の中島常楽院では、毎年10月12日に「妙音十二楽」という音楽入り法要が行なわれ、釈文と呼ばれる宗教的な物語が琵琶の伴奏で語られ、その合間に琵琶、笛、太鼓、銅鑼などによる十二曲の「楽」が演奏される。薩摩ではこの法要を除いて琵琶が盲僧たちに用いられることはなくなってしまったが、宮崎県延岡市の盲僧永田法順は、千軒近い檀家を一軒一軒回って、今日も琵琶の伴奏で釈文を語っている。(*著者註. 永田法順は2010年に逝去された。享年74歳)

 

●薩摩琵琶歌の東京進出と、錦心流の成立

 明治維新後、薩摩藩士の中央進出にともなって、薩摩琵琶歌も東京に紹介され、天皇の御前演奏などを契機として1880年代ころから人々に知られるようになっていった。薩摩出身の宮中歌人らも新作の歌詞を手がけ、武士の教養・教訓的な性格が強調された。このころ活躍した演奏家は、みな薩摩出身者で、西幸吉、平豊彦、須田綱義、吉水錦翁(経和)らがいる。なかで、吉水は、明治34年(1901)に錦水会を設立し、一般受けする芸風を工夫して、女性にも門戸を開き、「帝国琵琶」という名の下に、琵琶の愛好者を増やした。その流れを汲む東京出身の永田錦心(武雄、1885~1927)の活躍により、薩摩琵琶歌は一挙に全国的な流行を見るに至る。

 これに対して従来の様式を守る奏者は「正派」と名乗って活動を継続した。上田景二は、正派の立場から『薩摩琵琶淵源録』を著し、『御家兵法純粋』(久保之英編、1780年成立)の記述をもとに、島津忠良の作歌に、同時代の盲僧淵脇寿長院が歌の節と琵琶の手をつけたと考え、これが薩摩琵琶歌の起源であると記した。(中略)《城山》《川中島》《白虎隊》《潯陽江》《武蔵野》などがよく演奏される。

 永田錦心は、明治39年(1906)に錦水会から独立して一水会を設立し、全国的な人気を得て活躍する。これが錦心流である。従来の薩摩琵琶歌が、剛直で勇壮な表現をめざし、琵琶の弾法に重点を置いたのに対し、美声に恵まれた錦心は、優雅で洗練された声楽的技法の拡大をはかり、多くの作品を作って、芸能性の強い薩摩琵琶歌の様式を確立した。(中略)錦心の代表作としては、《石童丸》《河中島》《西郷隆盛》《本能寺》などがある。

 

●五弦の薩摩琵琶へ―錦琵琶と鶴田琵琶

 水藤錦穣(中村冨美、1911~73)は、9歳から琵琶を弾いて舞台に出ていたが、永田錦心の弟子水藤枝水の養女となり、美貌の天才少女として人気を博した。永田錦心の発案で大正15年(1926)に、新しく五柱の「錦琵琶」を開発し、水藤錦穣と名乗ってその宗家となった。錦琵琶では、従来の薩摩琵琶より第Ⅳ弦を完全四度高く調弦し、四柱を五柱に増やすことで勘所が増え、女性には負担の大きい押シ干奏法を多用しなくてもよくなり、また楽に正しい音高を得られるようになった。数年後には、従来の第Ⅳ弦を複弦にし、五柱五弦の今日の錦琵琶の形が完成した(『錦びわ 水藤錦穣』)。これにより、第Ⅳ弦は切れにくくなり、音量も増し、音色が豊かになった。錦穣はこの新しい琵琶で、常磐津節、山田流筝曲、大和楽、筑前琵琶などさまざまな邦楽を取り入れて新曲を発表し、錦心流を学んでいた女性奏者が多く錦穣のもとへ集まった。(中略)錦穣の作品は200曲を越し、代表曲には《曲垣平九郎》《時雨曾我》《靭猿》《お市の方》などがある。(中略)

 第二次世界大戦後は、琵琶楽全般の人気が低迷するが、そのなかで、鶴田錦史(菊枝、1911~95)は、琵琶楽に新しい可能性を開き、鶴田琵琶(鶴田流)を称した。錦史は、水藤錦穣と同年生まれである。速見是水らに師事し、15歳で「人気沸くが如き少女弾奏家」と錦心流の雑誌『水声』14号(1926年1月)のグラビアに紹介されるなど、早くから頭角を現していた。水藤錦穣が錦琵琶を創始するとその門に移り、鶴田桜玉の名でその片腕として活躍した。しかし第2次世界大戦後、錦琵琶を離れて鶴田錦史の名前で再デビューし、独自の活動を展開した。

 鶴田がめざしたのは、女性用の薩摩琵琶として誕生した錦琵琶に、薩摩琵琶本来の勇壮闊達な表現を盛り込んで表現の幅を拡げることであった。以後、終生、紋付き袴という男装で舞台に立ったのは錦琵琶との違いを強調するためもあったと考えられる。サワリの音色効果を高め、腹板を薄くして音量を増し、菊水という段違いの柱を用いて音程の安定をはかり、撥を薄くして器楽的な演奏効果を高めた。また錦琵琶や錦心流の奏法を発展させて、琵琶楽の語法をより豊かに、より合理的にした。鶴田錦史のもう一つの大きな功績は、映画音楽や現代邦楽作品にも積極的に取り組んだことであろう。現代音楽作曲家の武満徹の代表作、尺八と琵琶とオーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》(1967年)で琵琶を演奏し、ニューヨークでの初演を成功に導いた。これによって、従来は声楽の伴奏楽器に限られていた琵琶に、独奏や合奏という器楽的な可能性を開くことになった。(中略)代表作には《敦盛》《本能寺》《壇の浦》《義経》《春の宴》などがある。(以下略)

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